デザインについての話


デザインについての話。
 
シドニーでも、クライストチャーチでも、はたまたアメリカのサンフランシスコでも、電車の駅はすっきりした印象を受ける。
 
なぜだろう。東京の駅を思い出して気がついた。
それは駅員さんが手作りする貼り紙があるかないかの違いだ。
 
例えば東京で。
「この階段からは京成線には乗れません」とか「コインロッカーこの先にもあります」といったたぐいの貼り紙が、シドニー、クライストチャーチ、サンフランシスコの駅には一切ない。
シドニーではみな、設置された案内板を見て判断し、できなければ係員に聞いている。
 
交通機関の案内板はプロのデザイナーによってデザインされた、いわゆる作品である。
なぜ日本人は、プロの作品に素人が貼り紙をしてしまうのだろうか。
 
別の例で考える。
佐藤可士和さんがデザインした「セブンカフェ」のデザインがわかりづらいとして、コンビニ各店が手作りしたPOPがネットで話題になったが、なぜそのようなことが起きるのだろう。単純にデザインがダメだから、という理由ではないような気がする。
 
むしろ、日本人はデザインを理解する能力に欠けているのではないか。それより以前にデザインというものについて、子どものときから学んでいないのではないか。
 
デザインは送り手と受け手の双方が同じ立場に立たないと成立しないものであろう。
送り手はデザインについて知識や技術があるからそれを使う。が、受け手である私たちはそれに追いついてゆけない。
それを「デザインがダメなのだ」という結論にしていないだろうか。
 
率直に言って、日本人のデザインに対する感度は低い。
また、デザインに価値を見出すこともない。
この「能力」は、欧米と日本人とで大きな差があるようだ。
その結果はデザインの成果だけにとどまらず、もっとなにか大きな社会的、文化的な差異を生み出しているように思える。