呉線の線路より山側に細長く家並みが伸びた

 
 
 
呉線の線路より山側に細長く家並みが伸びた小屋浦地区には、かつていくつかのお店が点在していたようだが、今はその跡しかない。
  
Googleマップで見つけなければ、のれんをくぐることはなかったと思う。
  
飲食店を示すフォークとナイフのアイコンに「はきものや」とある。なんなんだこのお店は。
 
 
  
軒先の緑のテントに「はきもの」よりも大きく「お好み焼」と白抜きされたお店のガラス戸を開けると、狭い土間の奥にステンレスの鉄板を囲んで座布団が乗った椅子が置かれて、先客の作業着姿の男二人が薄く切ったサツマイモを焼いて食べていた。

「おこのみ?」と割烹着姿のおばあさんが聞く。壁に貼られたメニューには肉玉そばと肉玉うどんだけ。肉玉そばください。
     
雀卓を囲むように作業着の男たちの斜向かいに座ると、「これ食べて」と、ヘラで一枚のサツマイモが目の前に置かれた。

 
 
 
おばあさんは今年の3月で92歳。お店を始めて65年だとかおっしゃる。慣れた手つきで溶いた小麦粉を鉄板に薄く丸く広げると、キャベツと豚肉を上に乗せた。
 
ほどなくして甘いソースをかぶったお好み焼きが目の前にできあがる。
   
 
 
食べながらおばあさんの話を聞く。
  
昭和23年、彼女が19歳のとき婚約。「仲人さんと家に来たけど、こっちはお客さんじゃあ思うとって。母さんにあんたお茶でも出しんさい言われて行ったんよ。目も合わせんかった」
  
しかし、それが実際のお見合いだったらしい。戦前は海軍工廠で設計の仕事をしていたという彼はすぐに結婚を決める。しかし「19じゃまだ結婚しとうない言うて、一年待ってもらった」
   
映画「この世界の片隅に」でも描かれたように、こんな結婚は当時ではよくあることだったろう。しかし彼女は続けた。「今は仲人さん立ててする人おらんよね。恋愛結婚でしょ」
    
当時の彼女の気持ちを想像すると辛かったのかもしれない。なにしろ終戦後にようやく訪れた青春時代が、否応なく結婚生活になってしまったわけだから。
 
 
 
そんな彼女は二人の子を産み、それぞれ孫とまたひ孫ができた。「海外にも行ったんよ」と楽しそうに話を続ける。10年前の82歳のときには子どもたちに連れられてタイに行ったとか。元気だなあ。
  
彼女は僕が食べている間もずっと鉄板の前に立って、おしゃべりする。立ちっぱなしでたいへんでしょうと言うと「動いとらんとボケるんよ」と屈託がない。
  
「なんの取り柄もないけえ」と言うけれど、そのお年で健康に働いていること自体が非常な才能にしか思えない。
  
おそらく辛いことも多かっただろう。それでも年齢よりもずっと若く見える彼女を見ていると、幸不幸の基準なぞ存在しないように思える。
 
 
 
ごちそうさまを言って店を出るとき、彼女は僕を見てありがとうのほかにひと言二言声をかけてくれたが、思い出せない。また来てねというような言葉でなかったのは確かである。
  
わずか20分くらいの滞在だったのに、ずいぶん長く感じられた。また来たいな。